東京芸大大学院映像研究科 講演レポート
「多様性の受容と映画のユニバーサル性」
自主企画:東京芸術大学大学院映像研究科(横浜馬車道校舎)
開催日:2013年1月10日午後
ゲストスピーカー
汐巻裕子(株式会社ピクチャーズデプト代表)
太田英基(サムライバックパッカー発起人)
↑世界中を旅して、海外で仕事をする日本人を取材してきた太田さん
企画者
谷上 香子(東京芸術大学大学院映像研究科8期生)
文:澤田サンダー
海外の映画業界をプロデューサー、セールスプロモーターとして渡り歩いてきた汐巻裕子(ピクチャーズデプト)さんと世界50カ国以上の国々をバックパッカーとして駆け巡ってきた起業家の太田英基(サムライバックパッカー)さんを東京芸術大学大学院映像研究科にお招きして、講義をしていただいた。この文章は、その時のレポートである。
はじめに
なぜ、日本の映画が海外で全く相手にされないのか。
なぜ、日本のアニメやマンガは海外で人気が高いのか。
答えは簡単である。それは、日本の映画が芸術の「世界標準(ワールドバリュー)」からとんでもなく外れていて、アニメやマンガは外れていないからだ。そしてその映画の致命傷を軌道修正するために、汐巻さんと太田さんは「多様性の受容と映画のユニバーサル性」というキーワードを指し示してくれた。このキーワードは、二人の世界での経験が生んだ言葉だとも言える。
0:「デフォルト寸前の映画産業をどう立て直していくかを考える」
ぶっちゃけ、今の日本の映画産業は国内の小さなパイに、大勢の人が食らいついている状態だと言える。はっきりいて潤っていない。機材のデジタル化が進み自主映画の本数は増え、それらを取り上げる映画祭が盛んになり、自主映画と商業映画からもヒット作が出ていない訳ではないが、それでも業界を見渡せば映画館の閉鎖が相次ぎ、ソフトの単価は下落する一方で、産業としては年々悪化の一途をたどっている。それ故にどう考えても、今後の市場を海外に求める必要がある。日本で流行るだけのドメスティックな映画作りを、もうそろそろ見直していかなければいけない。それはずっと前から何となくわかっていることだ……。
だが、どうやれば良いのか。そもそも作ったものが海を越えるとはどういうことなのか。日本の映画学校では、欧米流の映画作りを学んではいるものの、それで作られた作品は全く海外に通用していないのが実態である。
そこで、そのような環境で苦悶する哀れな子羊である東京芸術大学大学院の学生たちは、今後どうするかを自分たちで考えていくために、グローバルに活動するお二人にお話を聞くことにした。
1:「一発屋ばかり量産する学生映画界を救う、パワーエージェント」
突然、芸大生に「卒業後に海外で活動したい人はいる?」と聞き始めた汐巻さん。そして何人かの学生が、学内で製作したものを海外に持っていった時の様子などを話し始めた。それらを優しくうんうんと、頷きながら聞いたあとに、汐巻さんはこうズバッと言った。「案外多いんですよ、何となく海外に行きたいって人。何となくカンヌに出たいとか、何となくヨーロッパの人に評価されたいとか。現地のメディアのインタビューで”明確に”海外進出のモチベーションを答えられる日本の監督って実は少ないんです」。この一言で会場の空気が一気に凍りついた。と、同時に、この時点で学生たちも、自分たちがその中に入ってしまっているのは恐らく間違いないだろうと半ば自覚している感じが伝わってきた。
さらに汐巻さんは具体的な例として芸大の某OB監督を引き合いに出して、映画を海外に持っていくエージェントの話を始める。講義はさらにヒートアップ。芸大生はそのあまりにも具体的かつ身近な話にやや血圧を上げていく。他にも国内で多数の受賞歴のある現役学生にも触れた。
そこで語られたのは、日本の学生映画出身の有望な作家は、まず一回目は注目されやすいが、二作目で繋がらず、三作目に行く前にほとんどは消えていくということだった。耳が痛い話だが現実問題である。私(澤田サンダー 六期生OB)の頭の中にも、数名の芸大OBで、卒業制作で大きく評価されたのに、その後、消息が絶え絶えになっている先輩たちの顔がちらついた。
ただ、それは必ずしも監督だけの責任ではないのだという。監督とビジョンを共有し、厳しい局面でも踏ん張ったり、またはビジョンを広げたりしていくのが本来プロデューサーの仕事であって、日本にはそれが出来る人材があまりにも少ないと汐巻さんは語った。
ようするに日本に存在するプロデューサーは、金欠な状況でも血まみれになりながらクリエイティブの精度を上げていくのは得意だが、その出来上がった作品を持ち出してグローバルなビジョン、つまり海外のビジネスにつなげていく能力に圧倒的に乏しい。さらに言えば「著作権の50年の始まりから終わりまでのグローバルなプランを描いているプロデューサー」が皆無だという。この二つを両立出来るプロデューサーを、汐巻さんは「パワーエージェント」と呼んだ。例えばK-POP「PSY」や「ジャスティン・ビーバー」にはそのパワーエージェント(L.A. Reid)がついていて、あたかも自然発生的にヒットしたかのような現象を生み出している。どうやらその「自然さ」もすぐれた「パワーエージェント」の要素らしい。
「そういうパワーエージェントのような人に気に入られて、可愛がられる、ちょっとヤクザな言葉に聞こえるかもしれないけど、海外でやっていくためには監督が他者と話し合って作品の精度を上げて、方向性を見極めていく必要がある。それが一作目以降の監督の評価を左右するんです」。
そのようなパワーエージェントを捜すことはもちろん、育てることも日本映画界に浸透していないとのこと……。
2:「ロストイントランスレーションを避ける:英語というツール」
そこから話は海外の映画祭での観客とのやり取りについてへと移った。日本の映画祭の観客は、ひっそりと草葉の影から静かに映画を見ている感じだが、海外の映画祭の観客は作品によっては猛烈に質問攻めをしてくるらしい。汐巻さんも時々、質問攻めに合うことがあるという。もしくは、上映中に次々と観客がゾロゾロと会場から出て行くのを目の当たりにする。映画祭では、たまに開始数分で観客がゼロになる作品も見かけるのだという……。
幸運にも最後まで観客が残って、質問があった場合、それにどう対
応するかが作品の評価の鍵にもなる。そして何よりも、作家が次のステップにいくためにはその生の声をどうやって持ち帰るかにもかかってくる。
そこで、やっぱり避けたいのは、通訳を介してよくわからないことを言ってしまったり、聞いてしまうことだ。そうなると、いくらパワーエージェントががっちりついていても難しい。それに通訳を介する分だけ質疑応答の時間が減るし、他言語に置き換える分だけ情報の意味も変わってしまう。確かに、このへんは過去にアメリカに進出し、『トラ・トラ・トラ!』で辛酸をなめまくった黒澤明を初めとした日本の映画監督全般に言えることかもしれない。
ちなみに日本の映画監督で英語を話す印象があるのは、この前亡くなった大島渚さん(ユーチューブで拝見)と芸大の教授でもある黒沢清さんくらいしか私も思い当たらなかった。ただ、確かに海外で成功している他ジャンルの芸術家、例えば村上隆さんなどは自身でスピーチもするし、契約書も自身の目で確認するというのはよく知られている。
3:「ユニバーサル性とは、海外へ出て行くという発想ではない」
芸大の学生たちは、正直ほとんど外国語が出来ない。この話題になった途端、学生たちの間にはどんよりと暗雲が立ち込める……。そこで、太田さんがかつて英語アレルギーであったことを例に出しながら、自身の思考が英語を話せるようになって、どういう風に変わっていったのかを話し始めた。
太田さんは、つい最近まで英語が全くしゃべれなかった。英語がしゃべれない頃に、海外で活躍したいという自分の理想をとある先輩経営者に語った時、「お前のその考えはグローバルではない」と鼻で笑われた経験があるという。実はそれに近い経験を汐巻さんもしており、映画業界で働く前に所属していた某外資系企業の入社式で役員に対して、同じようなこと(「海外で活躍したい」みたいなこと)を話して、軽くあしらわれたということがあったそうだ。
では、このエピソードは何を指し示すのか。
「グローバルな視野を持つということは、地球という球体の中で何かをする、という発想がまず生まれて、そのためにはどこの国やどの人種と何をするのかを考えるようになっていくことです。海外とか国内というくくりから実はスタートしない。英語は日本の教育システムだとなかなか喋れるようにはならないという現実があります。それが、グローバルな感覚の乏しさの原因にもなっていたのでしょう」
太田さんの話では、日本人は、地方→東京→アジア→世界のような考えで、世界を捉えている。それが芸術のユニバーサル性や多様性の受容を妨げているのではないのか、ということだった。
確かに、日本人は海外に向けて発信する映画を作るときに、ロケ地を海外にしたり、俳優を外国人にするという安易な発想を持つ傾向がかなり強い。それは川下からの盲目的とも言える発想だ。だが、汐巻さん曰く、世界の中での目的が見えていれば、オール日本人で、設定も日本の地方で構わない、とのこと。
「僕が英語を話せるようになって持てた発想の中に、例えば、カナダでやっているサービスがあって、それをリニューアルすればブラジルでも使える、という発想がある。これが、もしかしたら今汐巻さんがおっしゃられた映画で言うユニバーサル性というものに通ずるのかもしれない」太田さんはさらにそう続けた。英語はすぐには出来るようにはならないが、こういう思考ならある程度意識することで身に付くかもしれない。
「実際、海外の若者は、日本の若者みたいにクリエイティブで働きたいとか、業種、ジャンルの話をせずに、いきなりブラジルで働きたいとか、中国で働きたいとか、国名から考えてそこから職種を選択するという流れがあります。この川上からの流れのようなものを理解するだけでも、例えば、彼らの芸術作品の『楽しみ』のポイントの違いが見えてくると思います」
しかし、ここから汐巻さんは芸大生にハッパをかけてきた。ようは映画業界の現実はやはり甘くないらしい。現在、中国人や韓国人の英語が出来る映画人の割合が急増中で、それに輪をかけて共同制作の案件が増えてきている。日本の制作状況の縮小を考慮すれば、英語が出来ないとほぼ相手にされないというのには変わりがない。逆に英語が出来るとかなり楽しい業界になるだろうと続けた。どうやら芸大生は卒業後にしっかりと英語を学ぶ必要はありそうだ……。
4:「海外の海賊版事情からみるユニバーサル性、多様性と『旅館もの』映画」
ここから少し話は逸れて、太田さんは海外を旅行したときに驚いたものの中の一つの海賊版DVDの流通について語った。中国や中東(イランでは「おしん」が大流行らしい)でも盛んだが、特にケニヤとかペルーとかでは、ビル一本丸ごと海賊版販売のためのものになったりしていて、例えば、言われた商品をその場でインターネットでググって焼くなんてのもあったそうだ。不景気で貧困、貧困、と言われているが、太田さんの目から見ても、日本ほど律儀にコンテンツにお金を落としている国は世界的にも珍しいと、また夢のないことを言い出した。
「正直、先進国も後進国も関係なく、全世界的にダウンロードしてますね。恐ろしいのが、国によっては違法じゃ無いって認めている所もあるということ(笑)。そうなると、やはり映画を作る時点で、どうやってその作品を広めていくかを考えるタイプのプロデューサーは必要かもしれません。現地の企業と組んでコラボレーションして、その国の著作権や法律を行使ししながら作品を守っていくとか、いろいろ考えていかなければならない」
著作権の授業は私が現役学生だった二年前にもあった。実に恐ろしい授業だった。法律関係の人が来て、小難しい話をベラベラといろいろ話してくれるのだが、聞けば聞くほどお金を稼ぐための障害が見えてきて、自分の取り分がどんどんすり減って粒みたいになっていくのが感じられた。
この延長で、どうしても事前に世に出ているコンテンツ(例えば300万部売れているマンガ原作や小説原作の企画など)を映画化していくという流れがでていると汐巻さんは語る。そうなると、芸大のようにオリジナルにこだわる映画作りを続けていくためには、なおさら海外出資を募るタイプでなければ難しいとのこと……。
海賊版の話をしている最中に、日本国内での人気と海外受けしやすい作品の違いはあるのかという質問が出てきて、まずは汐巻さんと太田さんはお互いに知っている現状を話しあった。そもそもの認知体系が日本とは違って、日本のアニメ、マンガは全般的にあって、その次に日本のドラマがあって、日本映画は世界的にかなりマニアックな扱いをされているとのこと……。だが、太田さんはそこを少しフォローして、
「黒澤明監督の作品は確かに、どこ行ってもある程度あります。『七人の侍』(この時太田さんは『seven samurai』と発音した)とか。あとは、「リング」とか「らせん」みたいな日本のホラーは人気がありますよ。でも海外は、なんと言っても一番人気は『NARUTO』。その次は『ブリーチ』。あ、もしかしたら忍者もので映画を撮ればいいんじゃないですか? いけると思いますよ。他には死神ものとかが流行ってますね。それとあと、旅館もの」と語った。
え、旅館もの? と私は思った。外国人たちが、日本人がダラダラと旅館で寝泊まりしたり、飲み食いしたり、不倫したり、心中したりする映画を好むのか…。それは本当なのか……。もし本当だったらすぐに出来そうだ……。
太田さんはそこからもっと掘り下げて話した。要は、元来人間は他国の突飛な異文化的なものに興味を示すということなのだ。よく考えたら当たり前だ。それは日本人も同様である。だって、インド人のターバンだって、オーストラリア人のブーメランだって日本人は興味を持っている。これはユニバーサル性とはある意味逆の「多様性の受容」と言えるもので、「世界共通ではない特異なものをうまく表現出来ると、エキゾチックな興味として機能し、そこからファンタジーな人気が高まっていく」とのことだという。つまり、一旦はドメスティックだと思っていたものの中にも、グローバルに広がる可能性を持つものが存在する、らしい。ただ、同じ忍者もので例えば映画『GOEMON』は海外では難解で流行りにくいらしい。なので海外向けにモデルチェンジは必要で、それが『NARUTO』では上手くなされているとのこと。そのモデルチェンジの感覚は、やはりその時々のトレンドや、ユニバーサル性を多く知ることで構築されているものなのかもしれない。
そうだ、そう言えば、『NARUTO』の忍者は鼻ピアスをしていたり、ヒップホップ調の服装(主人公はシャレ乙なジャージだ)だったりして、どことなく今風でなじみやすい。同じ流れではないかもしれないが、河瀬直美監督の過剰と言えるほどに強く演出された「ど田舎の山の森の中にある民家」や「古びた神社」「ボロボロのトンネル」「神秘的な老人・老婆」などもそういうエキゾチックなわかりやすい響きがあるのだろう……。ああ、その流れで「旅館ものの映画」が流行っているのか……。と筆者は勝手に納得した。
5:「タブーを巡るユニバーサル性」
逆に世界共通で拒否反応を与えるエキゾチックなものもある。例えば、暴力を伴うセックス、ドメスティックバイオレンスがその代表選手だ。海外の人々は、彼氏や夫に殴られて犯されて、でも逃げずにさらに一段グレードをあげて快感を高めてしまう日本人女性の描写などに全く理解を示さないらしい。それに関しては、太田さんも実感があるらしく、同様のことを述べた。日本人はあまり意識していないが、この手の描写は本当に日本映画に多い。確かに市民権を得てしまっている感じがする。だが、海外ではそういうフェミニストとか、マイノリティーが嫌がるものは本当に強力に排除されてしまう。汐巻さんは具体的に、園子温監督の『恋の罪』での女性の登場人物の扱いについていろいろと問いつめられた体験を語った。この問題は解説やモデルチェンジではどうやら容易に対処できない。また、『恋の罪』にも含まれているが宗教の問題もそうである。例えば、イスラム教圏で売るなら豚肉を扱わないようにするとか、コーランを燃やす(日本人がそんな映画を撮るとは思えないが)という描写は避けるのは絶対条件。この辺のタブーの回避も揃えておくのが、ある種の「ユニバーサル性」でもある。
また、太田さんは、海外で普通でも日本でタブーな表現があることにも触れた。その代表は「平等性」または「基本的人権」を犯すこと。海外では格差や身分の差、移民問題があって当然なのに日本は異常に平等主義であり、この辺はタブーが根強い。具体的には、差別用語、在日問題や部落問題に強い抵抗感があるのがそれに該当するとのこと。
6:「作りたい物を追求するとユニバーサル性が発生し、多様性の受容も実現する」
クリエイターという人物、例えば、映画では監督、脚本家というものは、何かやりたいことを一つか二つ抱えていて、彼らはそれが出来ればすっきりするのだという。確かにそれはそうだと思う。だが、それでは産業として成り立たないし、作品の評価も得られない場合が多い。やりたいようにやるだけだと、作品は分裂を起こしたり、ただいたずらに難解なものへとなっていくからだ。何よりも映画という芸術は、大勢の人々が関わる。そこをまとめて、あるユニバーサル的かつ異質的でも支持されやすい方向へ持っていくのがプロデューサーの仕事であり、グローバルな影響力を持つパワーエージェントと呼ばれる人々の仕事も結局はその点につきる。ただ、さっきの英語の話以外は、そのパワーエージェントの仕事は、実はそんな難しい仕事ではないのかもしれない、と汐巻さんは語る。汐巻さん自身、外資系のメーカーの秘書業から、とらばーゆして30歳直前でプロデューサーになった経緯もあり、映画オタクのように分析的にも、またはマーケティング的にも映画を見ていなかった。それでも彼女はこの不況続きの映画界で、実績を残し続けている。彼女の話では、ある程度映画が好きであれば、あとは海外でヒットしている映画と日本でしかヒットしていない映画を見比べていくだけで、ユニバーサル性や海外に受容されやすい多様性のようなものを嗅ぎ分ける臭覚のようなものは簡単に身に付くのかもしれない、と言う。
「ユニバーサル性というのは、決して100人いたら100人に届けるということではないんです。100人の中の10人を10カ所でいい。だから、世界で当てる、という意識はむしろ持たない方がいい。何を誰に届けるかをわかっていれさえすれば、たぶん大きくは間違わない。それは作りたいものを突き詰めて考えていくことで到達するものであるとも思っています」
ただ、それでもやはり太田さんのように足で稼いだ人間は独特の強さがあるとのこと。あとはさまざまな世代の話を聞ける人であることが大きいという。出来るだけ絵空事ではなく、自分の足でしっかり歩いて、いろんな人に聞いてわかったことをベースに作品作りをしてほしいと付け加えた。とはいえ、自主映画によくある半径五メートルの物語は、ダメ。そこにはそもそものユニバーサル性や多様性は存在しない。だから、若くていきなりはそうそういろんなことは出来ないかもしれないが、地道な努力を続けてほしいと言って講義は締めくくられた。
まとめ
私は、汐巻さんと太田さんのお話を聞きながら、「多様性の受容と映画のユニバーサル性」というのは、「世界言語である英語的思考(合理性:レイシオ)を経た異文化理解」で、映画を考えることだということが徐々にわかってきた。そして、そこには「ビジネス」や「流通」が深く関わっている。日本の清貧をモットーとする(せざる追えない)映画作りは、結局最終的なものを周囲の「良心」や「親切」に「依存」してしまっている。要するに「自発的」になかなかなれない。そして「自発的」では無くなった産業には、「異文化理解」で発生する「規制」よりももっと厳しい締め付けが待っているのは、日本の大作映画と呼ばれる作品をみれば一目瞭然だ。そこにはハリウッド映画でさえあり得ない締め付けがある。ようするに、汐巻さんと太田さんが話された内容によって、合理的かつ多様な価値観を考慮し、突き詰めた作品作りを学生の間にしておくことが、いかに大事かが証明されたとも言える。それが「選択の自由」を確保することに繋がっていく。あとは、それにプラスして英語学習も必須だ……。以上、レポートは澤田サンダーでした。
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