伝説?の長回し、サイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者
April 13, 2012
3D映画の巨匠ジェームス・キャメロンが、「傑作!」を絶賛したマーチン・スコセッシ監督の初3D映画『ヒューゴの不思議な発明』は、批評家のレビューと、一般のレビューを数値化してメタスコアをはじき出すMetacritcでも証明されている通り、一般の観客よりも、映画関係者からの評価が異常に高い傑作。
公開前は、かくいう私も「うーん、また子供向けの3Dか…、なんでもかんでも3Dって、すでに飽きたのよん」ぐらいにしか捉えていなかった作品ですが、この期に及んでもまだ3D映画を(意図的に)見たことがないという映画大好き青年が「この映画なら3Dデビューしてもいいと思う」と発言していたことから、「それならば」と、見に行ったという次第です。
ウィキによれば、”批評家の総意は「『ヒューゴの不思議な発明』は、近頃の子供向け映画の多くが欠く純粋さをもつ、贅沢で洗練されたファンタジーであり、映画のマジックに対する大胆な愛を発するものでもある」であった”ということなんですが、確かに私もほとんど義務として見に行ってビックリ!なんと素晴らしい作品なんだ!3Dも素晴らしいけれど、ストーリーテリングが最高だ!と、ジェームス・キャメロンばりに絶賛したくなりました。ま、なんの影響力もありませんが…。
映画の中では、ジョルジュ・メリエスというもはやレジェンドとなった映画監督が戦前に今のSFXの基礎となるアイデア=多重露光、ディゾルブ、ストップモーションなどなど、いわゆる「映画マジック」をいかにチャレンジングに発明してきたか?が、たっぷりとアーカイヴ映像を使って語られています。
しかしそんな風に一斉を風靡し、映画界に新風を巻き込んだかつてのスター監督も、数十年の時を経て、「古いものにしがみついて、新しいものを受け入れることができない。受け入れる必要をそもそも感じていない」と、コリコリに凝り固まってココロを完全に閉ざした状態。
その固い固いココロの殻を、少年の純粋な冒険魂が、打ち破っていく、というものがたりに、今の映画業界の閉鎖的な状況と、それをとりまくクリエイターたちの疲弊したココロが投影されていて、そしてその疲れた映画人のココロたちに、まさに映画のマジックで明るい光を射してみたいです by スコセッシといった作品になっているので、業界人からの支持が圧倒的にアツい!のも当然だな、納得してしまった作品です。
実は全然、子供映画じゃない、洗練された大人のファンタジー。
本当に素晴らしかったです。アカデミー賞でも多くの受賞をしていたにもかかわらず、表面的に勘違いしていたもんですから、かなり遅ればせながらではありますが、ワタシ的には今年の5本指傑作集に入る作品になりました。
だって、あのスコセッシが「みんな、諦めるなよ、映画にはまだまだパワーが残ってるぞ。それを見つけて、表現して、発信するのが、映画人なんだろう?」とスクリーンいっぱいから呼びかけてくるのですから、どっぷりクリエイターサイドではないものの、同じ映画の波打ち際にいるものとしては、死ぬほど励まされる作品だったと言えます。が、一方で、ファミリー向けファンタジー、として「のみ」捉えてしまった人には、何がそんなに感動的なのか?ちっと「判りづらい傑作」なのかもしれないな、と、一般人<業界人な理由も判りやすいですね。
さてこんなことを書くと、3D全盛、デジタル時代の到来で「映画表現は変わらなければいけない」と端的に理解してしまう危険性もあるのですが、そんな業界のデジタル一極化の流れに、はっきりとNO! と言っているのが、クリストファー・ノーラン監督。
「予算の都合やインダストリーの都合で、なんでも安価のデジタルに流れているけれど、ボクにはその理由が全く理解できない。IMAXのフィルム撮影は、映画100年の歴史の中で最も素晴らしいテクノロジーの登場であって、この黄金のスタンダードに、他の技術も追いつくように開発を進めるべきなんだ。デジタルのチョイスがあることはいいことだけど、だからといってフィルムという選択肢が無くなるのは、ありえない。変わる必要性があるならば、喜んで新しいものを受け入れるが、お金がかからないという後ろ向きな理由は変わる必要性ではない。ボクの映画制作では、むしろフィルムの方がお金がかからない」とキッパリ。
確かに、IMAXは素晴らしいので、イチ観客として、私もこのノーラン監督の意見には大・大・大賛成です。
さて、このようにハリウッドの巨匠監督も、いまの映画のクリエイティブを取り巻く様々な環境に頭を悩ませたり、ココロを痛めたりしながら、どうやって移り気な観客のココロを掴もうか?と日々研鑽している模様。こうして映画には、実にいろいろな角度からの「映画のマジック」を使った表現方法がちりばめられているのですね。
さて、映画のマジックというと、3DやIMAX、壮大なVFXなどといった判りやすい技術面ばかりに目が行きがちですが、それだけではありません。
例えば、園子温監督のようなインディペンデントのドラマ作りにも、たっぷり映画のマジックは埋め込んであります。
映画づくりの過程においては、撮影が終わると、一旦、台本の通りに編集をし、この仮編集をもとに、組み立てを再構築したりして、映画のストーリーテリングの最終形が決まって来ます。こうして編集をロックした段階で一度テスト試写をします。編集が決定すると(ピクチャーロックされると)、次に際立たせたいセリフをアフレコして音声を調整したり、音楽を背景に敷いたり、効果音を足したり、映像の色を調整したり、ありとあらゆる映画のマジックを追加していきます。このマジックをどう使うか?も監督の腕の見せどころ。マジックの使い方が監督のオリジナリティとなって作品が完成に近づいて行くのです。
たとえば園監督の作品は、どれもオリジナルなマジックが多いので、オールラッシュと呼ばれる効果を付け足す前の編集ロックの映像と、様々なポストプロダクションを経て完成した作品は「全く」と言ってしまっていいほど「別もの」になっています。同じ映像を見ているのに、驚くくらいの「別もの」です。
ちなみに作り手側にマジックの使い手が減っているのでは?と私が感じる理由は、このオールラッシュの試写と完成試写で、あまり作品の印象が変わらないものが多くなってるなぁ、、、と思うからなのですが、まぁ、これは予算の都合でやりたくても出来ないことがあったりと、現場の理由は様々、そして監督の意図も様々でしょうから、一概に「だからダメなのだ」とは言えないのですけどね。
ところで、状況説明の前置きがかな〜り長くなってしまったのですが、この映画マジックを体感できる作品が明日から劇場公開となりますよ、というのが今日の本題です。
いまや「深谷カルチャー」(?)を作った人とも言える入江悠監督の『サイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者』。入江監督のシリーズ第3作目ですが、この監督のラッパーシリーズには「伝説の長回し」のシーンがファンの間では有名で、今回も話題のひとつとなっています。
「長回し」とは、カンタンに言えば、編集をせずに、ワンカットで1シーンを(途中で切らずに)撮影する手法を言います。シアターイメージフォーラムで(今日まで!)上映中の『ニーチェの馬』の監督、タル・ベーラなんかは、長回し大将です。長回し奉行です。ワンシーン、ワンカットが大好きです、というか、長回し以外のカットがない徹底ぶりです。
どんな効果を狙っているのでしょう?
例えば、カットありの撮影だと、役者さんは、①ある表情をして、で、次のカットでは、②角度を変えて同じ表情をして、次の角度では、③後ろから撮るアングルでセリフを喋るなんて場合は、3回、カメラは止まるわけです。長回しの場合は、例えば舞台の本番と同じで、役者さんもスタッフもずっと芝居の緊張感を持ち続けなければなりません。おのずと演技にも緊張感が生まれます。また、長回しすることで、カメラがずっと動くわけですから、場面の臨場感も生まれてきます。そういう効果を狙った映画の技法です。
ところで余談ですが、この映画のマジックとはどんなものか?というのは、なかなか一言では語りにくいのですが、かつて、淀川長治さんという素晴らしい映画の解説者がいて、テレビで映画が放送される前に、この映画にはどんなマジックが使われていて、それにどうやって気づいたらいいか?という楽しみを教えてくれました。最近の評論家のほとんどは、いや、もちろん全員とは言いませんが、いつのころからか、映画の個人的な感想屋になっていて、だから、一般のtwitterやブログにスピードと市場性、肌感覚の純度で負けてしまっているのではないか?と感じます。
…で、入江監督は、なぜ今回も『サイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者』で長回しを使ったのか?と香港映画祭の観客に質問され、それに答えている映像がありますので、ぜひ劇場で観る前にご覧ください。作品の見どころを予習をしてから観るのも、これまたオツな鑑賞方法であります。
カンペキ長くなっちゃいましたけど、いよいよ明日から公開の『サイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者』は、そういう楽しみ方もありますよ、というお話でした。おしまい。
「カッコイイ映画にならないために……」
サイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者 4/14公開!
pictures dept. is handling international sales of ROADSIDE FUGITIVE watch English trailer here.